−− 古代〜中世 編 −−
第四話 ・ << 蘇我大王 >>


 蘇我氏は、第八代考元天皇の三世の孫、武内宿禰の子孫と言われている。
 大和朝廷の豪族が、其の祖先を皇室に繋げた形跡が有るので一概には信用できない。が、 一応、其の系図を書いて置く。
 武内宿禰−蘇我ノ石川麻呂−満智−韓子−高麗−稲目−馬子−蝦夷−入鹿
 最後の入鹿が、大化の改新で討ち取られたのは、歴史の時間に習っている筈です。
 では、何故、討ち取られたのでしょう。皇極天皇が驚きながら、中大兄皇子に聞いた所、 「入鹿は皇族全部を殺して、この国を奪おうとしています。それ故、誅罰を加えました。」と。

 本当に、皇族を殺し、国を奪おうとしていたのでしょうか?。いや、既に、国を奪っていた 形跡が有ります。と、したら、「大化の改新」は、「大化のクーデター」と成るでしょう。

 その形跡は、日本書紀に書かれています。(海音寺潮五郎氏の「悪人列伝・蘇我入鹿」より抜粋。)

 1・皇極即位元年(642)7月。この年は日照りが続き、蝦夷が百済大寺の 南庭で雨乞いをした。翌日、僅かに降ったが、其の翌日は降らなかったので止めた。
 雨乞い神事は、この当時、天皇の重要な職務だった。この後、皇極天皇が神事を行ったところ、 五日の間降り続き、民は喜び「至徳天皇」と言ったと書かれている。
 2・同年。蝦夷が葛城の高宮に先祖の廟を営んだ時に、「やつらの舞」を舞わした。
 「やつらの舞」とは、縦8人X横8人、合計64人で舞う舞い。天皇の格式の舞。
 諸侯は6人X6人、計36人。大夫は4人X4人、計16人。士は2人X2人、計4人。と、 決められている。

 3.同年。天下の民と、氏族の私民を徴発し、葛城の今来に、大陵(おおみささぎ)・小陵(こみささぎ)の 二つの陵墓を作り、蝦夷と入鹿の墓とした。
 陵(みささぎ)と言う呼称は、天皇と皇后の墓に限られている。  民の徴発は、天皇に与えられた権限で、家臣に出来る事ではない。
 4.二年二月と三年六月に、国内のカンナギ(神職)らが、「神語入徴言説(かんごとのたえなることば)」 をのべたが、一々聞けないほど多数であった。
 ご神託と称し、時の権力者に媚びたのだ。後の道鏡事件の宇佐八幡宮の神託事件も、 此れに似たものだった。この時代の神道は江戸時代以後ほど、天皇家とは密接ではなかった。
 5.白い孔雀が見つかり、蝦夷に献上されたり、高市郡・剣の池に、一茎に二つの花をつけた蓮が生じ、 蝦夷は「まろの家の栄える瑞兆。」と言い、金泥で画かせて大法興寺に献上した。
 瑞兆を喜ぶのは、瑞兆を誇示する事で天命が自分に有る事を、民に知らせて納得させ、自らも 納得するためだ。後に、天武天皇が瑞兆をしきりに喜んでいる。負い目の有る権力者に多い。
 6.皇極二年、蝦夷が最上の位階、紫冠を入鹿に授けて大臣とし、次男を物部の大臣とした。
 蘇我馬子に滅ぼされた物部守屋の妹が馬子の妻だったので、物部の新氏姓を設置したのだ。
 冠位の下賜や、新氏姓の設置は天皇の権限。

 7.皇極三年、甘樫の岡に邸宅を二ヶ所作り、蝦夷の家を「うえのみかど」、入鹿の家を「谷のみかど」と 名付け、自分の子供らを、「王子(みこ)」と呼ばせる。
 「みかど」も「みこ」も、天皇家に許された言葉である事は、言うに及ばない。
 8.大化の改新直後、孝徳天皇が人々に誓わせた詞の中に、「君臣序を失う」や 「自今以後、君に二政無く、臣は朝を弐にすることなからん」と、言っている。
 大まかな意味は、「主人と家臣の序列が狂ってしまう。」「今からは政治に二通り無い、家臣は 政を二つにしてはいけない。」となる。
 裏返せば、其れまでは、その様な状態だった事に成る。


 蝦夷や入鹿が天皇を自称していたのなら、当然の事ばかりです。

−−−  蘇我氏の変遷  −−−
 繁栄の基礎は、満智が、斎蔵(いみくら)・内蔵(うちくら)・大蔵(おおくら)の検校(監査管理役)に 成ってからと言われる。大和朝廷の財政権を握ったのだ。
 河内地方を地盤にしていたので、大和盆地に入るにはこの地を通る事に成る。韓子・高麗の名前を見ても 想像は着くと思いますが、帰化人と密接な関係が有った。この頃は今と違い、読み書き・計算は帰化人に 委ねられていた。其の帰化人と密接な関係の蘇我氏が、三蔵の管理の役目に着くのは自然の成り行きだろう。
 稲目の頃、貿易や多数の田荘(たどころ)で、飛躍的に富を増やしたようだ。又、婚姻政策で皇室と 密接な関係を持つ。堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねぎみ)は欽明天皇の妃に成り、七男六女と 四男一女を生んだ。其の中で、用明天皇、推古天皇、崇峻天皇が即位している。
 後世、藤原氏が婚姻政策を取ったが、其の先例をしていたのだ。
 稲目は吉備の田荘で部民の戸籍を作らせている。帰化人を掌握していたから出来たのだ。戸籍の製作は 大化の改新後、朝廷も行っている。蘇我氏は其れだけ進歩的でも有り、知識的・合理的でも有った。
 その後の、仏教抗争の後、馬子は物部守屋を倒して軍事権も手に入れ、其の権力を絶大な物とした。

 馬子が崇峻天皇を殺害させたのは、東ノ漢ノ駒(やまとのあやのこま)と言う、帰化人を利用している。 この辺にも、帰化人を掌握していた蘇我氏の力が伺える。
 駒はこの後、馬子の家の奥殿にも出入りを許される。が、馬子の娘、河上ノ娘(かわかみのいらつめ)を 誘惑、密通し、誘拐して連れ去った。その後、其れを知った馬子は駒を捕まえ、庭先の木に吊り下げ、自ら 弓で射、剣で刺し殺した。
 其の時に駒が言った言葉に、当時の権力情勢が伺える。
 「吾其の時に当たっては、只、大臣を織るのみ。未だ天皇の尊き事を織らず。」
 蘇我氏が如何に大きな勢力だったのかが、この言葉の裏に伺える。

 馬子が直接、天皇の位を奪った事実は確認できないが、其の権力は天皇家を遥かに凌いでいた。 三国志の魏の曹操が、皇帝以上の実力を備えていたのに、自らは禅譲を言わず、その子の曹否が禅譲を受け、 皇帝を名乗ったのに似ている。
 当時の識者だった馬子は、中国や朝鮮半島の王朝交代を知らない筈は無い。其処には皇帝や王の政権交代が 有るのも知っていただろう。

 崇峻天皇を殺害し、蘇我氏の権力を確立したのは馬子と言っても良いだろう。
 馬子は大臣(おおおみ)として実権を握っていたが、其の子の蝦夷は642年(皇極元年)頃から大王(天皇) を自称する様な行動に出始めた。
 その子、入鹿が643年(皇極2年)に山背大兄皇子を攻め滅ぼし、蘇我王朝が確立されたと言えるだろう。
 では、その間の皇極帝は?。其の前の、推古・舒明帝は?。
 結論から言えば、後の時代(古事記が書かれた時代=和銅5年)に、蘇我王朝を抹殺するためと、大化の改新後の 天智・天武朝の正当性を主張する為に作られた天皇と推理します。

 舒明・皇極(二人は夫婦)は、天知・天武の両親で、天知・天武を正当の天皇継承者にする為に作り上げ、 推古帝は皇極帝が初めての女帝に成らない様に、過去の中から選ばれて、最初の女帝にさせられた。
 私の第三話・推古天皇の事を思い出してください。一度は遺言通りに植山古墳に合葬されたのに、何故、 掘り返され、別に推古天皇として埋葬し直されたのか。
 亡くなった時は「天皇」ではなかったのが、後に「天皇」にされ、其れに見合う埋葬をし直した・・・。 此れなら、つじつまが合うでしょう。
 その後、記紀を編纂した時に、各種細工をし、天照大神も男神から女神に作り変えられた。
 天照大神が男神である説は、古来から有る。女性の神として変える事によって、女帝(皇極=斉明)の出現を 正当化させようとした。

 推古天皇の摂政としての、聖徳太子は如何成る?
 崇峻天皇が殺害された後、天皇は、「厩戸皇子(聖徳太子)−山背大兄皇子−蘇我入鹿」と受け継がれた。が、 私の推理です。
 「隋書」に、倭の使者が行き、「倭王、姓は阿毎(天)、名は多利思比孤(たりしひこ)・・」と言っている。 「たりしひこ」は、男の名前であり、女帝なら「たりしひめ」に成る。倭王は男だったと言える。
 聖徳太子の亡くなった622年、伊勢神宮の斎王が交代している。此れは通常、天皇が崩御した時の行事だ。
 聖徳太子には蘇我馬子が、山背大兄皇子には蘇我蝦夷が、其々実権を握っていたと思われる。
 聖徳太子の最後は、前夜、夫人と一緒に寝室に入り、翌朝、二人共、寝ているが如く亡くなっていた。  普通に考えれば、有り得るのは二つ。自殺説。他殺(毒殺)説。しか考えられない。
 山背大兄皇子は入鹿に殺され、ここに、上宮王家は滅んでしまう。

 大化の改新後、皇位に付いたのは、軽皇子(孝徳天皇)。皇極天皇の弟で天智・天武の叔父に当たる。
 考徳帝の皇子、有馬皇子は無実の罪で殺害され、皇極天皇が再度、斉明天皇として位に就く。

 大胆な仮説を許されるなら、天智・天武の母親は皇族でも、父親は皇族では無かったのでは無いのではないか。 後に、その辺を工作し、蘇我王朝を抹殺し、天智・天武朝を正当化させるために、記紀が編纂された・・かもしれない。
 古事記の序文に「旧事の誤りたがえるを惜しみ、先紀のあやまりまじれるを正さんとして・・・」と有りますが、 「言い伝えは、変えてしまいましたよ。」と言っている気がします。

 最後に。逸年号と言うものが有ります。年号は「大化」から始まったとされていますが、それ以前の 年号が残っている。勿論正史には出て来ない。
 「光元(605)」「定居(611)」「倭京(618)」「仁王(623)」「聖徳(629)」「僧要(635)」「命長(640)」等、 「大化(645)」以前に数多く有る。これらの幾つかは、大陸や半島の情勢に、帰化人を通して明るかった、 蘇我氏の制定した年号と見るのは、考え過ぎでしょうか。

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